國光 喜兵衛 完儀
喜兵衛 初代略歴
BIOGRAPHY江戸時代中期、國光家は当時、萩藩乃美家の家士となっていたが、喜兵衛は乃美家から離れ、享保12年以降36年間にわたり、岩田・南桑両村の庄屋役、玖珂・熊毛郡大庄屋役など地下役人を務めた。生涯を通じ、私財を投じて、貧民や窮民の救済に努め、度重なる藩への貢献により、名字帯刀を許された。完儀の記録も享保から宝暦年間まで庄屋役であり、その間に喜兵衛は庄屋として名字帯刀を左許されている。さらに大日堂所蔵の棟札である。つまり、喜兵衛は完儀と同一人物であり、大日堂境内に現存している燈籠には完儀の文字がはっきりと刻まれていることから、友義は完儀の誤写である可能性が高い。
史料・刻銘
HISTORICAL RECORD
「奉再興大日堂一宇 国家安全 諸人快楽祈所
于時元文三午ノ九月吉祥日
法主大日坊正覚寺清伝 願主國光喜兵衛友義 」
「奉寄進
國光完儀 國光孟雅
明和三丙戌二月」
「奉再興八幡宮一宇 宝暦八
願主國光完儀 山城重左衛門 國光武七郎」
活動年表
ACTIVITY TIMELINE誕生
熊毛郡岩田村の乃美家家士國光兵左衛門の子として生まれる。
岩田・雨桑庄屋役「國光家文書」
岩田・雨桑庄屋役を仰せつけらる
役中名字、差面さる「國光家文書」
岩田村國光喜兵衛、藩への貢献により庄屋役中に限り名字を名乗ることを許される
悪疫流行「國光家文書」
悪疫流行し救済のために米三石一斗・麦一石七斗差出す
防長地下上申
岩田村石高由来書及び境目書絵図を録上する
大日堂再建
願主となり大日堂再建
熊毛・玖珂大庄屋役「國光家文書」
熊毛・久賀両郡の大庄屋役を仰せつけらる
利根川堤防御手伝普請「國光家文書」
萩藩より、幕府からの利根川堤防御手伝普請の経費に銀500目差し出す。
役中帯刀、左許さる。「国光家文書」
岩田村庄屋國光喜兵衛、藩への貢献により、役中の帯刀を許される。
風害被害「国光家文書」
風害に際し米4石3斗、大麦15石を出して、無利貸しとする。
大洪水「國光家文書」
六月二十五日洪水、七月十三日大雷雨洪水、十六日雷雨洪水、米二石八斗・大麦三石二斗・麦一五石を出して無利貸とする
身柄一代名字帯刀「國光家文書」
身柄一代に限り、名字帯刀を許される。熊毛・玖珂の大庄屋役を退く。
大地震・大雷雨「国光家文書」
七月二十日夜大地震、二十一日大雷雨、年末に米一〇〇石を元居にして差出す
大雨洪水「国光家文書」
五月十四日から三日間にかけて大雨洪水。元居米三〇〇石に一〇〇石を加え、計四〇〇石を元居米として差出し困窮者の救済に充てる
倅代名字左許「国光家文書」
次代までに限り、名字を許される。
疱瘡流行、室積浦不漁「國光家文書」
秋より疱瘡流行、冬に入りますます猖獗。室積浦不漁。救済のため米三〇石を差出す。明年また米二八石、銀五貫を出す
岩戸八幡宮再建「岩戸八幡宮棟札」
岩田村國光武七郎・西畑村山城重左衛門とともに願主となり岩戸八幡宮を再建する
庄屋役退任、永代名字左許「國光家文書」
庄屋役を退く。永代名字を許される。
倅、茂左衛門御利得雇士官「平生町史」
開作に馳走米500石を出銀する。倅、茂左衛門は二人扶持、5石の御利徳雇として士分に取り立てられ、國光家の分家となる。
大日坊燈籠寄進
大日坊仏母山花蔵院正覚寺、大日堂前境内へ倅、孟雅とともに石燈籠寄進
死去
死去。享年七三歳