Iwata
岩戸八幡宮の周辺に広がる岩田地区は、山口県光市の瀬戸内海沿岸からやや内陸に位置し、島田川の支流である岩田川(溝呂井川)の流域にあたります。
この地域は、水田や農地が広がる比較的低平な地形をなし、その間に緩やかな丘陵が点在しています。地形的に居住や農耕に適した環境であったことから、史料や考古学的遺構により、この地では古代から人々の営みが続いてきたことがうかがえます。
1. 周防國風土記
天保期(1830–1844)に、藩が領内の実態把握と財政再建を目的として、各村に提出を命じた報告書
熊毛宰判 周防國熊毛郡風土記 拾三
岩田村
当村は美和庄之内ニ而岩田村と唱え候事
其訳詳なる事ハ相知不申候得共當村岩戸
御立山内ニ高サ六尺五六寸幅四尺三四
寸厚サ壱尺餘ニ而建屏之様なる石御座候
是を天之岩戸石と申傳ヘ依之岩戸村と名
付しをタチツテトノ五韻相通を以岩田と
言習ハせしならんか岩戸八幡宮をも岩田
八幡宮と唱ヘ来り候彼是岩戸村を岩田
村と傳したるニ而可有御座と被相考候前
断之岩戸石之下に金鶏埋ありて大三十
日夜只一聲啼く是を聞く者ハ富貴を得ると
申傳ヘ候得共聞たるもの茂無御座故詳な
らす候
現代語訳
当村は美和庄の内にあり、岩田村と称しております。
その由来について詳しいことは分かっておりませんが、当村の岩戸御立山の中に、高さ約2m、幅約130cm、厚さ30cmあまりの、屏風を立てたような形の大きな石がございます。
これを「天の岩戸石」と申し伝えており、これによって岩戸村と名付けられたといわれています。
そして「岩戸」と「岩田」は、タ・チ・ツ・テ・トの五音が通じることから、次第に岩田と呼び慣わされるようになったのではないかと考えられます。
そのため、岩戸八幡宮もまた岩田八幡宮と称され、こうした事情から岩戸村が岩田村と伝えられるようになったものと思われます。
なお、前述の岩戸石の下には金の鶏が埋められており、大晦日の夜に一声鳴くといわれ、その声を聞いた者は富貴を得ると伝えられています。
しかし、これを実際に聞いた者はおらず、詳しいことは分かっておりません。
2. 石清水八幡宮文書
石清水八幡宮が記録、管理又は所蔵してきた文書群
これは、保元3年(1159)12月3日に、太政官の官司の一つである左弁官局から出された公文書である。
文書には、書記として大史・小槻宿禰の名が記され、発給者として中左弁を務めた源朝臣雅頼の名が挙げられている。(大史、中左弁は官職名)
さらに、石清水八幡宮の権少僧都・田中宗清が、先代別当・道清から本書を伝えられた旨を追記している。
― 原文の現代語訳 ―
左弁官局から、石清水八幡宮および宿院極楽寺に宛てて出された命令書。
応永年間(1394–1428)に出された禁止令について。石清水八幡宮と極楽寺から成る社寺複合体(宮寺)に属する荘園において、領家・預所、ならびに下司・公文などの在地役人に関するものである。
これらの者が、先祖伝来の譲状を所持していると称したり、世襲であると主張したりして、不当に所領を押領することを固く禁ずる。
また、正当な系譜をもって所領を保持していた者であっても、その継承がすでに断絶している場合には、当該の土地は速やかに本所、すなわち石清水八幡宮 へ返還しなければならない。
官寺領 周防国岩田保
[以下省略]
この文書は、元暦2年(1185)に源頼朝が石清水八幡宮別当・田中祐清宛に出した安堵状です。安堵状とは、既存の土地支配や権利を公的に確認・保証するための文書を指します。
本書は源平合戦の最終段階にあたる時期に作成されたもので、頼朝が自らの政治的正統性を確立しようとしていた姿勢をよく示しています。この安堵状によって、平安時代以来石清水八幡宮が有してきた古来の所領を、在地武士による侵略から保護し、荘園の幕府の領有権や管理権を公式に再確認しようとしたものです。
―原文の現代語訳―
八幡宮寺社領(源頼朝 花押)
(ほか荘園名省略)
周防国 遠石別宮・石田保
右に挙げた諸荘園は、古来より石清水八幡宮の神領である。ところが近年、平氏追討の戦乱に乗じて、守護や武士たちが年貢を不当に押領したり、兵糧米として強制的に徴発したりしているという。そのため、長年にわたり続けられてきた仏事・神事のための財源が枯渇し、祭祀が衰微するに至っていることは、まことに嘆かわしい。
そもそも、寺社の祭祀を支える所領については、干渉があってはならない。ましてや、この大社の所領においては言うまでもない。速やかに兵糧の徴収および一切の不正行為を停止せよ。これらの土地の管理は、先例に従い、神社の使者の指示のもとに行うべきである。
天の下に神徳を敬わぬ者がいようか。四海の内に、この社のことをなおざりにする者がいようか。武士たちの横暴な振る舞いは、はなはだ不届きである。神慮を恐れる心があるならば、こうした乱暴を永久にやめ、所領の正しい支配を行え。よくよくこの命令を心得、違背することのないようにせよ。
元暦二年正月九日(1185年)
3. 豊後入江文書
大友氏の有力庶子家である田原氏に関する文書群
この文書は、暦応三年(1340)に足利尊氏が家臣である豊前蔵人三郎(田原直貞)に対して、所領を恩賞として与えたことを示す下文(くだしぶみ)である。南北朝の動乱期において、尊氏は、周防国石田保(もとは岩田左近将監の所領であった土地)のように、敵方から没収した所領を戦功のあった武士たちに分け与えることで軍事力を維持し、彼らの忠誠を確保していた。
— 原文の現代語訳 —
足利尊氏花押を付した下文
宛先:豊前蔵人三郎(法名:正道)
周防国岩田保(現在の山口県)について、これまで岩田左近将監が務めていた地頭職を、そなたに命ず、速やかにその職に就き、領有・支配せよ。
右のとおり、この地は、これまで悪党(敵方勢力)を度々討ち取った功績に対する恩賞として与えるものである。先例に従って、この所領を管理・支配すべきである。よって、ここに下知する。
暦応三年三月四日(1340年)