創世期ー 遺構からわかるもの ー

岩田を含む山口県東部の熊毛郡は、古代においてヤマト王権の西進を支える最重要拠点でした。かつてこの地には「柳井古水道(からと水道)」と呼ばれる海路が存在し、ここを支配した豪族は、海上交通の掌握、高度な製塩技術をもって独自の勢力を誇っていました。

Kumage

熊毛郷の繁栄と実態

―在地勢力から大和王権への編入過程-

1. 自然・地理条件が生んだ繁栄の基盤

岩田を含む熊毛地域は、豊かな山林と河川、そして温暖な気候に恵まれ、古代より定住に適した安定的な土地であり、この自然環境は高い農業生産性を担保し、長期にわたる定住社会の強固な基盤となった。
地政学的に特筆すべきは「古柳井水道」の存在である。当時は海進の影響で内陸深くまで海水が入り込み、天然の良港となる水道状の地形が形成されており、この穏やかな内海航路は、沿岸航行が主流であった古代において極めて高い利用価値を誇った。 湾奥部に位置する熊毛郷は、風浪を避ける停泊地や物資の集積拠点として機能し、豊かな農耕生産圏と海上交通網が直結する「物流の結節点」として、周辺地域とは一線を画す独自の地位を確立したと考えられる。


2. 遺跡が示す生活の実態と社会構造

大和王権が完全に中央集権化する8世紀初頭以前の熊毛郷一帯にも、膨大な数の集落跡や生活遺構が確認されている。竪穴建物、柱穴、溝、土坑などの遺構密度は極めて高く、軍事的緊張の絶えない流動的な地域とは一線を画す、成熟した地域社会の存在を証明している。
この遺構形成は弥生時代、あるいはそれ以前からの連綿たる営みの蓄積である。安定した生産と生活を基盤とする「成熟した定住社会」が、数世紀にわたって維持されていたことが読み取れる。
また、複数の集落が地理的に連続して展開している点は、熊毛郷が単一の集落に留まらず、地域単位で高度に統合された巨大な生活圏・生産圏を形成していたことを示唆している。こうした重層的な社会構造こそが、後に巨大古墳を築造する「王」の権力の源泉となったと考えられる。


3. 地域豪族勢力の形成

安定した生活環境と高い生産力を背景に、熊毛郷では土地・水利・交通を管理する実務的な指導層、すなわち地域豪族層が形成されたと考えられる。巨大古墳が限定的であるのに対し、生活遺跡が極めて豊富である点は、この地域の首長が象徴的・軍事的な支配よりも、生産基盤を支える「実務的・管理的支配」を重視していたことを物語っている。
これらの豪族層は、農耕生産の調整や集落間の利害関係の維持、さらには「古柳井水道」を利用した海上交通の管理といった多角的な役割を担っていた。こうした実務的な統合機能により、熊毛郷は中央から役人が派遣される以前の段階で、すでに一種の自律した「地方政治単位」として成立していたと推察される。


4. 「熊毛」という名称が示す政治的性格

『先代旧事本紀』には、応神天皇(軽島豊明朝)の時代に「加米乃意美(かめのきみ/かめのおみ)」が周防国造に任じられたと記されている。ここで注目すべきは「熊・隈(クマ)」という音の響きである。古代において「クマ」は、ヤマト王権の中枢から見た周縁的、あるいは非服属的な勢力を指す語として用いられた可能性が高い。
一方で「意美(臣)」は、王権に臣属した在地首長に与えられる称号である。これらを統合して考えると、「加米乃意美」という名称は、もともと独自の勢力を誇っていた「熊毛」の首長が、ヤマト王権への臣属を契機として「熊(毛)の臣(クマノオミ)」という公式な地位に位置づけられた結果と解釈できる。
本来、彼ら自身は何と呼ばれ、どのような名でその地を治めていたのか。公式記録に刻まれた名から、ヤマトの傘下に入る前の「熊毛王」の真の姿に想いを馳せる。


5. ヤマト王権への従属と再編

熊毛郷における考古学的遺構には、急激な文化断絶や戦乱による破壊の痕跡がほとんど見られない。この事実は、この地域が武力によって強制的に制圧されたのではなく、在地勢力の存続を前提とした「段階的・協調的な政治編入」が行われた可能性を強く示唆している。
ヤマト王権は、熊毛郷のようにすでに高度な統合能力と生産基盤を備えた地域に対して、既存の豪族勢力を排除するのではなく、彼らを「国造(くにのみやつこ)」という地方統治機構の担い手として再編・再定義する方法を選択した。その結果、熊毛郷の首長層は自らの在地支配権を王権に追認される形で、中央集権体制の末端を担う官僚組織へと組み込まれていったと考えられる。


6. 中央集権化の中での熊毛郷

国造制の成立以降、熊毛郷はヤマト王権の地方支配構造の中に明確に位置づけられ、貢納・祭祀・軍事動員といった制度的枠組みを通じて中央権力と結びついていった。しかし、その政治的再編にもかかわらず、地域の生活基盤や集落構造には大きな断絶や急激な変質は認められず、従来の社会構造が継続している。
このことは、熊毛郷が一方的に支配される周縁地域であったのではなく、ヤマト王権にとって安定した生産力と統治能力を備えた、信頼可能な在地統治基盤として機能していたことを示している。


7. 総括

以上のことから、熊毛郷の歴史は「地理的優位性 → 安定した生活と生産 → 在地豪族の形成 → 王権への臣属と再編 → 中央集権下での継続的統治」という段階的発展モデルとして整理することができる。
古代日本における地方統合の過程を具体的に示す、実証性の高い事例であり、独立した熊毛王国がヤマト王権の西進拠点として取り込まれ、やがて古代国家の一翼を担う重要な行政・経済拠点へと変貌していく過程そのものです。

DATA-01 古墳

■年代 ■古墳名 ■墳形・規模 ■特徴・出土品など
4c初 国森 一辺約30mの方墳 竪穴式石室、木棺。連弧文昭明鏡・鉄製武器類・鉄製工具類など
古柳井水道を望む最古級の首長墓。ヤマト王権との紐付き以前から存在する勢力の独自性が強い。
4c末 茶臼山 全長90mの前方後円墳 竪穴式石室、日本最大の単頭双胴怪獣鏡(鼉龍鏡/変形神獣鏡)
ほか銅鏡,玉類,武器,農耕具,埴輪多数。瀬戸内海の「古柳井水道」を掌握し西国への航路管理を中央から委ねられた極めて重要な首長。
5c初-前 神花山 全長30mの前方後円墳 箱式石棺、20代女性人骨、鏡片,勾玉
棺内赤色顔料、女性首長。武器を伴わず、航海の安全を祈る宗教的役割と政治権力が高度に結びついていたことを示す。
5c前 白鳥 全長120mの前方後円墳 瀬戸内西部最大。竪穴式石室、箱式石棺、二神二獣鏡。
ほか四神四獣鏡,銅器,鉄武具,埴輪など。「熊毛王」の権力の頂点。
5c中 阿多田 全長約40mの前方後円墳 竪穴式石室、捩文鏡、玉類
神花山古墳に隣接。阿多田山麓古墳、野稲古墳にも隣接
5c中 木ノ井山 直径27mの円墳 鉄製武器類、鉄製農耕具類、玉類、埴輪の破片など
木棺、3体の合葬
6c初 天王原 全長45mの前方後円墳 初期の横穴式石室、須恵器。
埋葬様式が竪穴式から横穴式へと劇的に変化。大陸技術の受容と、一族を同じ石室に葬る追葬の習慣が始まった転換点。
6c初 溝呂井 円墳/方墳 家形石棺、耳環、玉類。
石棺の使用など、畿内と同等の高度な埋葬儀礼を持つ。地域における在地首長の富裕さと、中央文化の完全な浸透を物語る。
6c前 稲荷山 直径6.5mの円墳 鈴付大刀、石突。
石室は小型の石材を積み上げており、石柱で補強がされています。奥壁が玄門のように改変され、お稲荷様が祀られています。
6c前 石走山 直径10mの円墳 耳環、馬具、水晶玉、土師(はじ)器、須恵器等
南に国森古墳、東側に後井古墳群が分布する。丘陵全体が、集落遺構や埋葬遺構が含まれる石走山遺跡となっている。
6c中 納蔵原1号墳 全長28mの前方後円墳 横穴式石室、円筒埴輪、装身具、鉄刀、馬具、須恵器など。
この地域における「前方後円墳」の最終段階。墳丘の小型化は、前方後円墳という政治的記号が終焉を迎えつつあることを示す。
6c中 納蔵原2号墳 横穴式石室、装身具類・鉄製品(鉄刀・鉄鏃・刀子)・馬具・須恵器・土師器など
1号墳の50m下方に位置する。墳丘は失われている。
6c後 多々野 円墳 横穴式石室。
地方豪族。楊井氏に受け継がれていく
6c後-7c 末常 円墳
大規模古墳がなくなり、小規模首長墓
6c後-7c 水金 全長10mの円墳 ガラス小玉ほか玉類、銀巻耳環、鉄鏃・刀子、鏡板・辻金具等の馬具
赤子山から北西に伸びる台地の突端に造られた円墳。7世紀まで追葬されていたと考えられている。ほか高坯・脚付碗等の須恵器
6c末-7C初 後井1号墳 直径15mの円墳 片袖式横穴式石室・銀製耳環2・碧玉製勾玉2・鉄鏃19
周防国造一族の系譜に連なる首長墓と想定される点で重要視される古墳
6c末-7C初 後井2号墳 全長32mの前方後円墳 両袖式横穴式石室・鉄鏃6・鉄刀子1・須恵器(坏6・高坏5・甕1)
1号墳と同時期もしくはやや遅れて築造
6c末-7C初 後井3号墳 羨道部:須恵器坏身・坏蓋を5個2列並置。2個内に淡水産カラスガイ
1,2号墳の30m下方にある。そのほか多数副葬品ほぼ原位置を保ったまま出土。
7c前- 東前寺古墳群 11基の円墳 小規模な横穴式石室。
熊毛における古墳造営の終焉。

DATA-02 遺跡・遺構

時代 名称 遺構・主な出土品
弥生〜古墳 岩田遺跡 竪穴住居跡、土師器、須恵器、紡錘車。
平生町岩田に位置。古代の生活基盤を示す重要拠点。住居跡の多さから、付近の古墳群を支えた生産集団の存在が裏付けられる。
弥生中期 吹越遺跡 箱式石棺墓群、弥生土器、磨製石斧。
丘陵斜面を利用した集団墓地。多数の石棺が確認されており、古墳時代以前からこの地に強固な血縁組織と埋葬儀礼が存在したことを示す。
弥生〜奈良 尾国遺跡 製塩土器、石錘、漁労具、建物跡。
佐合島を望む海岸部に位置。弥生時代から続く大規模な「製塩」拠点であり、海上交易ルートにおける重要な産業遺構。
古墳〜奈良 浜崎遺跡 須恵器、土師器、建物遺構。
平生湾の奥部に位置する生活遺跡。水上交通の拠点としての性格が強く、当時の海岸線付近での活発な物流活動を物語る。
弥生〜古墳 宮田遺跡 竪穴住居跡、貯蔵穴、高坏、壺。
平生町平生村に位置。安定した居住地であり、出土する土器の多様性から、周辺地域との広範な交流があったことが窺える。
弥生末〜 黒島浜遺跡 製塩土器(脚付、皿形)、建物跡。
平生町曽根地区。特に製塩業が盛んであったことを示す遺物が豊富。ここで生産された塩は、中央(王権)への献上品や交易品となった。
古墳〜奈良 与浦遺跡 石組遺構、須恵器、円筒埴輪片。
平生町宇佐木。付近の古墳(神花山古墳等)に関連する祭祀、あるいは管理拠点の可能性を持つ。当時の土地利用の高度化を証明する遺構。

DATA-03 史料

史料名 時期 内容と歴史的意義
日本書紀神話〜8c景行天皇を助けた「神夏磯媛」や、神功皇后を支えた水軍の伝承。
万葉集8c「麻里布(まりふ)」を詠んだ歌。国家の重要港湾であった記録。
正倉院文書8c「熊毛郡」の納税記録。律令体制下での行政区分の確立。
延喜式神名帳10c「熊毛神社」の記載。古代豪族の氏神が国家公認の社格を得た証。
東大寺文書12c〜「美和庄」の記録。東大寺領として中世経済を支えた広大な荘園。